最近、「忙しくしていたい、さもないと何もしてないって自分を責めてしまう」症候群に陥ってる。
自分をせめるのは一番辛い事だから、やめたいんだけどね。
さて、最近どうしても時間が取れたら書きたいと思っていた事を書きたい。
それは、物乞いの事だ。
ストックホルムの街は今、物乞いでいっぱいだ。どの駅を降りても、どの場所を歩いても、老若男女問わず紙コップや小さい紙の箱を置いて(または手に取って)お金がその中に入るのを待っている。日本の「お祈りスタイル」で手を合わせてじっとしている人もいるが、随分役者だなと思う。
特にさすが海外と思うのは、物乞いもアグレッシブで、電車の車内で物乞いをする人たちもいる。
スウェーデンの電車は先にカードなどを読み取ってゲートを通れば、出る時にカードの読み取りはしないので、スキをみて構内に入れれば、どの電車にも乗る事が出来る。ゲートが開く時お金を払った人と一緒にゲートをくぐればタダで入れるのだ。(私は二回これをやられて、背中におっさんの体をぴったりつけられた。本当に気持ち悪かった。以後、改札を通るときは必ず、必ず後ろを確認して入る)
それを利用して、動かない客の間を「お金を恵んでください」と一人一人に話しかけながら練り歩くのだ。
最近会ったのは、システマチックな作戦。
まず、身体障害者の子供の写真と自分の状況を簡単に(スウェーデン語で)書いた紙をシートに座っている乗客に渡していく(または膝に置いて行く)。そして戻ってくる時その紙を拾いながらお金を乞うのだ。写真の紙はネットで拾って来た。こういうのを皆持ってる。(笑)そして皆同じ書体、同じ文章。
ある時たまたま隣に座っていたスウェーデン人のおばさんがその紙を見たとたん、めっちゃ怒って騒ぎ出したことがある。何でも「私知ってるわ!これは嘘よ!その紙とおんなじ紙を配ってた人が他にもいたもの!この嘘つき!この子はあんたの子供なんかじゃないでしょ!お金なんか絶対やるもんか!」だそうでである。確かにそのプリントされた紙は防水加工した(笑)、いかにも「長く使おう感」みえみえのカードなのだ。
でも、私なんかは最初から無視なので、逆にしっかり怒ったりしっかり相手をしてあげているスウェーデン人って結構優しいなと思う。
夏になって特に多くなった物乞い達。どうして福祉が充実してるはずのスウェーデンに物乞いがいっぱいるの?とダーリンに聞いた事がある。ダーリンによると、彼らは組織で海外から陸続きで流れて来て物乞いをするんだそうで、スウェーデン語が話せない人の方が多いらしい。なるほど物乞い倶楽部か。でもその物乞いをすればその人の寝場所と食べ物を確保できるなら抜けられないのかもね、とのこと。さらに、ドラッグ欲しさにお金を乞うのもいるらしい。特に見た目若そうでスウェーデン語も話せるのはアル中かドラッグ中毒らしい。そいつらはすでに酒とドラッグしか見えてないから、働けないのだ。
これが本当かは分からないが、何ということか。アホさかげんに怒りも沸いて来ない。
私がもし今大学生だったら、ぜひとも論文に「物乞いは金持ちになれるか?」について書きたいなどと思う今日この頃。
物乞いは、汚い身なりや身体の欠陥をプレゼンテーションして、道行く人々から「同情」を買い、お金を集める職業である。物乞いは金持ちになれるのか?働かなくてもお金が勝手に自分のところにくるのだ。こんないい仕事はないはずだ。
しかし、物乞いがもし「結構お金貯まったんだ~」などと一度でも話したりしたらどうだろう。そんなことをいわずしてもその物乞いが金持ちになったとわかったら、もうお金は集まらない。道行く人々はお金持ちにわざわざ寄付をしたりしない。可哀想だからお金を恵むのだ。可哀想じゃない人には恵まないわけで、結果物乞いはそれ以上のお金を集める事ができず、金持ちはキープできない、という推論だけど、どうだろう?
いろんなところをまわればいい、というのは実際にやってる物乞い倶楽部の人たちな訳で、もしかして物乞い倶楽部の頭は金持ちかもしれないけどね。
さて、物乞い達は見るからにお金を渡してあげたくなるような見た目を演出しなければいけない。それは絶対条件だ。たまに普通の服を来た若めの女が(でも移民)さっさ、さっさと同じ言葉を早口で言いながら電車内でお金を集めている光景も見たが、まったく様になっていない。物乞いに見えない人は、お金は集まらない。
物乞いとは、心から可哀想な雰囲気をかもしていないと、フェイクだったりそんなに困ってないのだとすぐに見破られてしまう。物乞いも演技力が必須なのだ。心から自分が飢えていて、お金に困っていて、雨風をしのぐ事ができず大変辛い毎日を思っている事を体全体で表現しなければならない。もちろん太ってては絶対にいけない。実は貧乏な人ほど炭水化物しか食べられないから(食べ物で一番安いもの)貧乏な人ほど太ってる場合が多いのだが、見た目はやっぱりダントツ痩せてないとね。
と、ここで急に潜在意識の話に飛ぶが、ということは、身も心もれっきとした立派な物乞いにならないとお金は集まらない訳で、身も心もれっきとした立派な物乞いであるということは、一生物乞いから脱却できない、ということでもあるわけだ。今日はここが論点です。(笑)
お金を集める為に必死になってやっていることそのものが、自らの自己像を作り上げ、立派な物乞いになる夢をしっかり叶えているわけだ。
これでは金持ちにはなれない。なれるはずがない。物乞いとは、物乞いである限り物乞いから脱却できない最底辺の職業だと思う。仕事として考えるならね。(←ここ大事)
私個人の話で言えば、物乞いにお金をあげた事はない。困っている人を助けたいという自己満足を満たすなら他のやり方がある。わざわざヨーロッパを贅沢に旅しながらお金をもらう人たちに協力しなくてもいいだろうと思う。(←やっかんでる(笑))まず第一に、電車の中も道端もそうだけど、あげるかあげないかとという選択をしなくてはいけない状況にされるのが一番不愉快なのだ。だから私はタイランドが嫌いになった。物を売りつけてくる人たちを断りながらビーチに居続けるのは無理だし、そんな思いをしにビーチにきたんじゃないから。
元に戻ろう。
お金じゃなくて、物乞いに飲み物とか食べ物をあげる人をたまに見かけるが、明らかに困った顔をしている物乞いを見ると、結局それってやっぱり仕事なんじゃんと分かっていてもがっかりする。コーヒーもらってもな~とも思うが。(笑)
あと、夕方旦那らしき人が物乞いの奥さんらしき人を迎えに来てて(夫婦でか!と)、誰かからもらったバナナをいる?と奥さんが旦那に見せていたが、旦那がいらないってジャスチャーしてて(何語かわからなかっただけだけど)「おいおいうっかり人が見てるぞ~気をつけて物乞いしなさい!」とアドバイスしてあげたくなったほどだ。(笑)
それだけの時間をそこで費やす暇があるなら、慈善団体にでも出向いて、それなりの保護を受けられるはずだ。少なくとも道端で座らなくても食べ物はどうにかなるのに。
結局物乞いとは、自分の意志でやるものであり、やりたいからやる仕事であり、どうしようもないものなのだ。
今日もその姿を見かけるたび、ガン見(笑)しながら、物乞い達のアイデンティティに直接問いかけている私なのである。
仕事に貴賤はないというが、私は物乞いだけはやりたくない。ってあえて宣言する必要もないが。
でももし何かの政治的なパフォーマンスとして(やるのかよ!!)やるのであれば、「金はいらん、食い物くれ!」って書いてみたい。きっと他の人より意外にお金が集まるんじゃないかと思うのだが。
ひとつだけ、あえて彼らの存在理由があるとすれば、やっぱりそれは「困った人にお金をあげた優しい自分」を感じられる機会を作ってあげた、ということだろう。それはそれで大事な存在理由だけどね。