2010年7月10日土曜日

孤立の必要性。


今はたいていこういう場所でお勉強しています。時々泳ぎながら。(笑)

さて。こちらではテレビで「ソプラノ」というアメリカドラマを連日放送している。
アメリカンマフィアの話で、会話の約25%にFワードが入っている。
私はそれがとっても嫌。でもダーリンが見ているので、むやみにチャンネルを変えられない。
こういうのを見ていると、自然と会話にFワードが増える。
ちょっと電車に遅れただけで「Fワード」。もーいや。ダーリン、品を疑いますよ!!

人間は日常から影響をたくさん受ける。
ハグハグが日常的な国にいると、ハグハグも違和感なくできるようになる。
沢山食べる人と一緒に住んでいると、自分も沢山食べたくなる。

最近始めた「あっちの世界探索」関連で、ママンに送ってもらった数冊の本を読破した。
しかし、なんともしっくりこない。その本は「普通のサラリーマンがこんなすごいことできた!」ということを強調しているのだが、
「普通のサラリーマン」ってどんな人のことを言うのかしらん。多分出版社の意向だろう。
でもその中身も私には少し違和感を感じるのだ。

具体的には表現できないのだが、「〜です、でした」という何かを説明したあと、必ず「〜ですがね」と否定文が入るのだ。
「〜を体験しました」と、日常では体験できないあっちの話をしたあと、必ず「〜でしたがね」と現実的な感想のオチがつく。
これが私にはどうも違和感を感じて、私にはとても読みにくい本だった。

オチを付けることで自分はあくまで常識人だということを証明しているのか、はたまた無意識に自分でそれを確認しているのか…
それはわからないが、少なくとも「〜でしたが〜を体験しました」というように、文体を変えてほしいと思う。
でもこのオチ付き文体こそが、スピリティアル系を毛嫌いする「理系」の方々にも入りやすいトリックなのだろうか。
最後にオチた印象で人間はその文章を理解する。あくまで左脳で考えた思考に戻ってくるのが、今のスピリチュアル本の必須条件なのかもしれない。

私としては文体を変えてほしいと切に願うのだが、相手は作家ではないのでそこは多分無理でしょうなあ。出版社の意向かもしれないし。

見開き1ページの中にたいてい1回はこのイチ付き文体パターンが出てくるので、それに慣れてきたのか、
ある時同じ思考で料理のことを考えている自分に気づいた。おっそろしい!!
『〜にしようかな」と考えたあとで「まあ〜だけどね」だって。

自分と同じものに興味があるからと言って、全ての人が自分と合う人とは限らない。
ウクレレが上手に弾けるからと言って、その人がいい人とは限らない。

送ってもらった本の作者はヘミシンクで私のやりたいことができている先駆者なのだが、
その人を受け入れないと私はヘミシンクで一生何も体験できない…と錯覚しがちになる。

昔の私ならここで十分1年は悩めただろうが、年の功だがね、今ではそれとこれとは別だと理解できる。
だから影響されやすい私は、他の人の感想を聞かないことが一番なのだ。

さいわいにも、タダでさえどうあがいてもスウェーデンで孤立中の身である。
せいぜい手探り&試行錯誤で自分なりの「あっちの世界探索」をしようと思う。

「孤立してるけど、自分なりの方法がきっと見つかるよ」

ほーら、こっちの方が断然いいだろ?

0 件のコメント: